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首里散歩 Vol.206 褪(あ)せない人たち

お勧めのビュッフェを食べながら、色々な困りごとの相談に乗っていた午後。

目の前に広がる景色に見惚れながら、お世話になっているスクールや教室の説明をしたら、ふと気づく。

どんなに良い雰囲気か、素敵だと思っているかと同時に、関わる方々の魅力を伝える時に、記憶から思い出す話が、小さい頃の話からトラウマなど深い悩みまで、驚くほどに濃くて、そっと心にしまったのだ。

まだそんなにつきあいの長くないお友達と、お互いのこれまでの歩みを話すと、偶然の一致もいくつもあり、以前から親しかったような気がしてきて、表情が和らぐ。

家族の連絡にも利用しているSNSでは、小学校からの各学校や就職先で知り合った方、同じ悩みを持つ仲間、父の介護でお世話になった方、子育てで関わった保護者や先生方など、その都度、色々深い話をしてきた皆さんが変わらぬ熱さで佇(たたず)んでいて。

私の家族の思い出話や興味のある話などに、属性にとらわれずに、共感し合ったり一緒に盛り上がったりしている。

思い返せば、幼少の頃から、一人になっている友だちとも活発な友だちとも、分け隔てなく打ち解けて、いつの間にかみんなで盛り上がっていたりして、人の良いところをとらえるのが得意で、短い時間でも分かり合える人が多かった。

私が学生の頃には、アロマテラピーを中心に音楽やイベント企画などの仕事もしていた姉への電話が、よく自宅にかかってきて、バラエティ豊かな方々との会話に花を咲かせていた。

姉への言付けに留まらず、近況を確認し合ううちに、悩み相談を受けたり興味深い話で盛り上がり、姉本人が電話に出ると「今日は妹さんはいないの?」と聞かれるほど、『話せる妹』という、謎の役割を担っていた。

たまたま話す機会のあった方の魅力を見つけては楽しんでいるだけで、目的も何もないのが良いのかもしれない。

沖縄に来て、そのつながりがずっと褪(あ)せない仲間に、沖縄の深みや心の豊かさを備えた方が次々と加わり、大石林山で見た「御願(ウガン)ガジュマル」のように、どんどん根を広げながら、私を支えてくれている、そんな気がしている。

ライター
首里石鹸 白鳥恵子