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晴れ時々、首里 Vol.15 沖縄を見つめ続ける“琉球みやらびこけし”

沖縄本島南部に位置する町、八重瀬(やえせ)町。
青い空にむかってのびているような道の脇にサトウキビ畑が広がる。
信号待ちをしていると、どこからともなく流れてきた懐かしい民謡が聞こえ、そちらに目をむけると、畑仕事の途中なのか、木陰で涼むおじぃの姿が。
目が合うと、にこっと微笑まれ、なんだか日常のせかせかとした気持ちがほぐれていくような気がした。

そんなのんびりとした雰囲気が漂う町で、「琉球みやらびこけし」を、一体一体、手作業で制作されている、障がい者支援施設「太希おきなわ」の利用者のみなさんと、指導員「金城 勤 」さん。

(写真:金城勤指導員と歴代のこけし達)

「那覇からは、遠かったでしょ?」
そう気さくにお声がけくださり「いえ、意外と近いなと感じました。」と返すと、「若いからだよ。僕は隣(八重瀬町の西側に位置する糸満市)に行くにも遠く感じるよ。」と、気さくで優しい勤さんのお人柄に、自然と笑顔がこぼれた。

(写真:歴代の琉球みやらびこけし達が並ぶ。現在制作されているのは、ピンクの着物を着た「首里娘」から左に「ハイサイドール」「絣帯」「糸満娘」「四つ竹」「四つ竹(松)」「絣帯(松)」の手前の7体。)

現在、「田港 朝一さん」「翁長 敏光さん」を先頭に、7名の利用者が制作にかかわり、金城勤指導員を中心に支援をおこなっています。「琉球みやらびこけし」は、沖縄が本土復帰した1972年(50年前)に、生産が始まり、身体障がい者の経済的自立を支援しようと、県外出身者が南風原町の授産施設に導入し、現在は八重瀬町の「太希おきなわ」が大切に引き継いできました。

制作当初は、本土から技術指導に来ていただいたり、紙に描いた型紙を片手で押さえ、口で描いてみたりと、来る日も来る日も試行錯誤を繰り返しし、気づけば2~3年、毎日描いていたという。
以来50年。今も日々、制作し続け、伝統と技術を守り続けている。

一体一体手作りなので、一つとして同じこけしはない。
田港さん・翁長さんにこけしを送り出す時、どのような気持ちなのかを伺うと、「まるで娘を嫁に出すような気持ちになる。」「でも、望んでくれる人がいるのは嬉しい。」と仰った。

(写真:左手だけで花笠の絵付けをする田港朝一さん)
(写真:1972年から使用している機械。)
(写真:指導員手作りの研磨機で作業する福地永昌さん。)

そんなこけし作りに欠かせない機械は、今も当時(1972年)のものを使用し、こけしをのせる台や道具などは、指導員が一人一人に合わせて調整をおこなっています。
「皆さん、お一人ずつ、使いやすいと感じるものが違うからね」と話す勤さんの作業は、長方形に木材を切り出す所から始まり、利用者の支援をおこないながら、絵付けまで対応しています。

(写真:指導員が制作した台にのる花笠。)
(写真上:ラジオの音が鮮明に聞こえる静かな工房で真剣に絵付け作業を行う利用者さん。)
(写真上:こけしを支える台は50年前から形を変えながら引き継がれている。)

そんな金城勤指導員に今後“琉球みやらびこけし”がどうあってほしいかをお聞きすると、
「もっと沖縄の方々に知っていただきたい。」
「沖縄と言えば“琉球みやらびこけし”だよね。と、なったらいいね。」と話す。
机にならぶこけし達を見つめる勤さんの目には、娘を見守るような優しさと、伝統を守り続ける情熱がうかがえた。

(写真:50周年を記念したの琉球新報の記事と紅型に身を包んだ「ハイサイドール」。)

今年は本土復帰50周年の節目の年。
激動の時代と共に、現在まで守り、作り続けられたこけし達は、まさに作り手の方々の人生そのものともいえるだろう。
変化しながらも情熱をもって挑戦し続ける。
障がい者支援施設 「太希おきなわ」の皆さんが一体一体丁寧に作り上げる、 “琉球みやらびこけし”をぜひ知ってほしい。そして、そんなこけしを情熱をもって作り続けている方々がいることを忘れないでほしい。

首里石鹸 中里有紀子

【太希おきなわ】
DATA:〒901-0516 沖縄県島尻郡八重瀬町仲座1038−1
営業時間(民芸班):10:00~15:00
定休日:土日祝祭日
TEL:098-851-7522
沖縄本島南部、八重瀬(やえせ)町にある障がい者支援施設。自然豊かな緑に囲まれ、青々とした空と海が見渡せる。指導員の勤さんと利用者の方々が一つ一つ手作業で、 “琉球みやらびこけし”を制作しており、今年で、こけしの制作が始まって、50年(本土復帰と同じ)の節目の年になる。
施設の隣にあるパン工房では、種類豊富なパンを販売しており、地元の方々に親しまれている。